つげ義春『ねじ式』解説あらすじ

1960年代

始めに

つげ義春『ねじ式』解説あらすじを書いていきます。

背景知識、作風

『ガロ』

 つげ義春は『ガロ』を代表する漫画です。

 『月刊漫画ガロ』は、1964年から2002年頃まで青林堂が刊行していた漫画雑誌です。内容としてはリアリズムやシュルレアリスム、マルクス主義を作品に取り入れたり、文学や絵画など既存の芸術と交錯するような形で独創的世界を展開していきました。

 つげ義春は、白戸三平、永島慎二と並び、ガロを代表する漫画家で、私小説、シュルレアリスム、象徴主義など種々の小説ジャンルを参照しつつ、独自の世界を展開していきました。

 本作もシュルレアリスム的な、夢の世界を描いていて、カフカ『城』のような倒錯した論理が展開されます。

夢とシュルレアリスム

 本作は、シュルレアリスム的な精神が見え、作者自身の夢を下敷きにしてものされています。

 シュルレアリスムは夢や夢に着目したフロイトに注目し、その理論の礎にしました。

 そもそも夢というものは記憶におけるシミュレーションで、そのなかで規範的に逸脱的なパターンなどは強い印象を持って捉えられることがあります。シミュレーションのなかでは、しばしば現実における物理現象から逸脱したパターンも表象として現れ、それはメディアにおいて共有されたときに、強い想像力を喚起しますが、人間の脳というものが予測装置であって、予測を裏切るパターンこそが注意を引くからといえます。

 このような部分こそ、各地の神話が幻想文学であったり、錯視や錯覚を催す表現だったりが注意を喚起理由と言えます。

 本作も、夢の世界の不条理が描かれ、想像力を喚起します。

物語世界

あらすじ

 主人公の「ぼく」は泳ぎに来た海で「メメクラゲ」に左腕を噛まれます。「ぼく」の静脈は切断されむき出しになり、手で繋ぎ止めていないと血があふれるようになります。

 死の恐怖におびえ、「ぼく」は漁村で医者を探します。しかし出会う人からはむげにされ、必死に訴えても取り合ってもらえません。

 仕方なく隣村まで「ぼく」は線路の上を伝って歩いていきます。すると線路の向こうから機関車がやって来ます。「ぼく」が乗せてほしいと頼むと、運転手である狐のお面をかぶった少年は乗せてくれます。

「ぼく」は機関車に乗り込むものの、隣村とは逆方向に走っていました。運転手から「目を閉じれば後ろに走っている気持ちになるはずだ」と諭され、風鈴の音に癒やされながら目を閉じますが、機関車はやはり元の漁村に戻ります。

 時間を浪費したと感じた「ぼく」は、「テッテ的」に村で医者を探すものの、目医者しか見つかりません。

 近くの老婆に聞くと、「金太郎飴ビル」というビルにある女医を紹介してくれます。そこで、「ぼく」はこのビルが金太郎飴の製法でできていると推察し、それは自分の「おッ母さん」も考えていたため、「ぼく」は目の前の老婆が「生まれる前のおッ母さん」ではないかと思い詰め寄ります。「これには深い訳がある」「それには金太郎飴の製法から説明しなければならないが、それはできない」と泣き出し、「ぼく」はそれ以上は聞くのをやめます。二人は金太郎飴を折りったりとしばし交流し、別れを告げます。

 ビルに入りながら、「ぼく」は死をそれほど恐れなくてもよかったと悟ります。ビルにいた女医からはここは婦人科で男の来る場所ではないと伝えられるものの執拗に迫り、すると女医は急に裸になり、「ぼく」と一緒に布団にくるまり「シリツ」を始めます。

 麻酔もなく「シリツ」をすることに「ぼく」は憔悴するものの、いつの間にか成功します。血管は取っ手のある「ねじ」で止められ、これは「○×方式」を応用した手法だといいいます。女医からはねじを締めると血が止まると警告されます。

 「ぼく」はモーターボートに乗って満足げに左腕を眺め、漁村を去ります。

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